鍵屋は両国橋の下流側、玉屋は上流側で花火を打ち上げた花火の製造元だ。両国の花火が全国に伝播し、現在各地の花火大会につながっていることを思えば、隅田川花火大会こそは、正真正銘の花火大会、格式の高い花火大会ということになりそうだ。
键屋在两国桥下游,玉屋在上游,都是生产燃放用焰火的商铺。如果说,两国的焰火后来传至全国,影响形成了现在各地的焰火大会,那么隅田川焰火大会也就堪称焰火大会的元祖,可谓“大家风范”。
暑い盛りの格式ある遊びと言えば、花火見物と切っても切れない川遊びがあげられる。屋形船を大川(隅田川)に浮かべて芸者をあげての大酒宴。月見もできるし、花火が上がれば興も増す。何と贅沢な納涼風景だろうか。しかし、これをできるのは富裕層だけだ。庶民は漁師の小舟にでも乗せてもらったのだろうか。『江戸名所図会』には屋根のあるものないもの、大小いろいろな船が描かれている。橋の上と川辺は、人でごった返している。
说到盛夏里的例行游览,那就是舟游了,观赏焰火时一定不能少了这项。屋形船只泛波大川(隅田川),船上阵阵笙歌、觥筹交错,还可仰观明月,腾空而起的焰火更将游兴掀至高潮。好一片华丽的纳凉景象。然而,能享受这份奢侈的也仅有富裕阶层。一般老百姓只能搭上渔夫的小船游玩。《江户名所图绘》中描绘了大大小小的各样船只,其中就有没有顶棚的小船,桥上与河边是摩肩接踵的人群。
両国の花火は第二次世界大戦など、何回か中断されたが、昭和53年(1978)に再開されて今日まで続いている。江戸時代と違って、現在は両国橋より上流の桜橋や駒形橋の付近が打ち上げ場所だ。名称も隅田川花火大会となった。
二战期间,两国的焰火曾多次中断,昭和53年(1978年)再度举行,一直持续到今天。与江户时代不同,现在的焰火发射地点改到了两国桥上游的樱桥或驹形桥附近。名称也变成了“隅田川焰火大会”。
なぜ両国で花火を上げたのか。それは、大川の川開きの行事のアトラクションとして採用されたからだ。
那么,为什么要在两国放焰火呢?其实,焰火大会原是作为大川“川开”仪式的附加演出举行的。
川開きということは、水神祭であり、悪疫退散を祈願するイベントである。折しも前年の享保17年(1732)は、関西では飢饉(ききん)があったり、江戸ではコレラが流行したりで、多くの死者を出していた。幕府は、慰霊のために花火を許可したのである。つまり、この花火大会は、天空高く花を咲かせて死者を弔う慰霊祭でもあったのだ。花火の経費は、船宿や料理屋が負担したという。
所谓“川开”也即水神祭,是一种祈祷无病消灾的传统仪式。正好在前年的享保17年(1732年),关西地区发生了大饥馑,江户也深受痢疾之害,不少人因此丧命。幕府为了追悼这些逝者,就许可了焰火大会的举行。如此也就意味着,绽放夜空的焰火大会其实也是一场祭奠亡灵的慰灵祭。据说,为焰火经费买单的是船旅馆和料理店。
幕府は、付近の船宿や食べ物屋の夜間営業も認め、夜店や屋台、見世物小屋なども許可した。期間限定で、川開きの5月28日から川じまいの8月28日(旧暦)まで。花火も納涼船も同じである。多くの人々を集めた両国の花火は、店の営業時間の規制緩和もして、結果的には経済改革でもあった。コレラの流行で厭世的になりつつある人々を元気づけたことも見逃せない。
幕府不但允许了附近船旅馆和饮食店的夜间营业,同时还许可了夜店、摊贩、杂耍店等等,限定的时间是从“川开”举行的5月28日到“川开”结束的8月28日,焰火大会和纳凉船的时间也与此相同。两国焰火大会吸引了大批人群聚集,不但缓和了对商店营业时间的限制,还推动了经济改革。此外还有一点也不可忽视,即它给因霍乱流行而变得厌世的人们带来了活力。
江戸幕府はときどき気の利いたことをしている。明暦3年(1657)の大火のときも、焼死者をまつる回向院(えこういん)を本所に造ってきちんと慰霊をしている。こういう政治は、江戸の庶民にも少なからず精神的な影響を与えてきたはずだ。慰霊や祭りという言葉を例にあげてもそうだが、日本人の精神構造部分の、重要なあるいは尊い気持ちは、ずっと昔から育まれ受け継がれてきたような気がする。花火を楽しむことは、本来、日本人の祈りの一形式なのである。
江户幕府时时会做些为百姓着想的好事。明历3年(1657年)的火灾过后,幕府在本所为祭奠遇难者修建了回向院,在此举行了盛大的追悼仪式。应该说这种政治也给江户的老百姓带来了很大的精神影响。上述出现的慰灵、祭祀等词语也是如此,在日本人精神结构中,这种心理弥足珍贵,从很早以前就传承了下来,欣赏焰火的娱乐原本也是日本人祈祷的一种形式。
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