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昭和の碁聖と呼ばれた囲碁棋士、呉清源さんが30日、亡くなった。戦前、戦後、日中間の激動の歴史に翻弄(ほんろう)されながらも、「囲碁は調和なり」の信念で、囲碁に生涯をささげた。
被称为昭和棋圣的围棋棋士吴清源于30日辞世。战前、战后、在动荡的中日时局颠簸不平的历史中,他始终秉持着“围棋是调和剂”的信念,将毕生心血献给了围棋事业。
幼時、父から囲碁を習った呉さんは、メキメキと才能を現し、評判となる。毎日、十数時間勉強。本を手に碁盤に向かい続けたため、左手の人差し指と中指が湾曲してしまったという。
年幼时便随着父亲学习围棋的吴先生,展现出其卓越的才能,获得了很高的评价。每天坚持学习数十小时。手持书本面向棋盘不断练习,以至于左手的食指和中指已经弯曲变形了。
その才能を見込まれて1928年に来日。日中関係が大いに揺れていた時期だったが、囲碁の研究と対局に集中し、「新布石法」の発表など、第一人者への道をまい進した。しかし、日中戦争の拡大で、中国籍であることに批判が出、36年に日本国籍を獲得し、一時期「呉泉」を名乗った。終戦後の46年、強制的に中国籍に戻された。この間、宗教に凝るなどし、日本各地を転々とした時期もあるが、囲碁の対局では、当時のトップ棋士をことごとく打ち破り、日本囲碁界の第一人者として活躍し続けた。
他的这种才能被相中,于1928年来到日本。即使在中日关系大幅度摇摆的时期,他仍旧集中于围棋的研究与对局,发表“新布局法”等,朝向围棋界第一把交椅的道路上前进。但是,随着中日战争的扩大,他却因为中国籍遭到了批判,于是在36年获得了日本的国籍,这一时期以“吴泉”这个名字生活。最终在战争结束后的46年,强制被返还中国的国籍。在这期间,他潜心于宗教、周游日本各地。一旦碰上围棋对决,便会把当时的顶尖棋手打的落花流水,作为日本第一棋手一直活跃在围棋界。
激動の時代を生きる中、全盛期は過ぎ、大きなタイトルには恵まれなかった。79年、自身の意思で再度日本国籍を取得した。「囲碁こそわが祖国」の信念でさらに、研究を続けた。
在动荡的时代中生存,过了全盛期之后,并没有被赋予得天独厚的头衔。79年他自己提出再次加入日本国籍。“只有围棋才是我的祖国”他报着这样的信念,继续围棋的研究。
囲碁の真理を求める勉強は100歳を前にしてもなお続いていた。囲碁の真理を求める一方で、常に世界平和も願っていた。今年7月、100歳を祝う会でも、「囲碁を通じて、日中の友好関係がさらに深まることを願う」とのメッセージを寄せ、世界平和を願った。
为寻求围棋的整理孜孜不倦的学习直100岁之前,并且还要继续下去。一方面寻求围棋的真理,另一方面他常常祈愿世界和平。今年7月的100岁庆祝宴会上,还传达了“希望通过围棋,是的中日友好加深”的讯息,“祝愿世界和平”。
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