东京塔这部小说从“我”一点点长大,一直写到“我”目送着母亲因病去世,各种生活细节每每令人感同身受,因而赚取了读者大把的眼泪,也当之无愧地成了哭泣小说的首席代表。
Ⅳ(15)
大人たちに聞く、かつて華華しかったもの。家中に子供たちの声と、炊きたての御飯の香りが漂っていた時のこと。
確かに、それはそこにあったのかもしれないが、十代のボクにはだれもその様子を思い浮かべることはできなかった。
すべてが幕を閉じた後に生まれ、惰力で進んでいる環境しか見たことのないボクたちの世代は、かつてそこにあったものに価値すら見出せないでいた。
結局、廃れてしまう、寂れてしまう、離れてしまう、誰もいなくなってしまう。
こんな結果を残してしまう。かつて、一瞬存在したというそのきらめきに信頼が置けない気持ちでいた。
栄枯盛衰の無情、家族繁栄の刹那。人々が当たり前のように求める、その輝きと温かさを玉虫色のものだと不信な眼でしか見ることができなかった。
祭りの後の空虚しさ。消え入りそうなものへの恐怖感。ボクはその恐ろしさにずっと怯えてゆく。
表面的な理想、薄っぺらな良識を馬鹿にした。必ず訪れる衰退に気づかず、型通りの幸福と工場で大量生産される生活、家に身をまかせて流されれば生涯幸せであると信じる者が間抜けに見えた。
完全でなければ、すべて偽物だ。永遠でなければ、すべてが幻覚だ。しかし、永遠たるものが、この世にはひとつもない。
半年に一度、週末を利用してオカンは別府のアパートに様子を見るために、泊まりがけで来ていた。オカンが来た時はクリームシチューの定食屋には行かず、オカンの手料理を食べたり、ステーキハウスや鰻屋に連れて行ってもらうのが楽しみだった。
この年頃になると友達は親と一緒に歩くのが恥ずかしいと言っていたけど、ボクはそれを思ったことがない。むしろ、オカンが来ると、別府の街を連れて歩いたものだ。
问一问大人们,都是曾经壮烈辉煌的事情。在家中则是孩子们的声音或有关饭菜的飘香的事情。
但实事上那些事情当时确实存在,对于10岁的我,谁也不会回忆起那样的情景。
都是在闭幕之后出生的、只是看到因惯性前进中的这个年代的我们,没有发现在那里曾经发生过的那些东西的价值。
结局是:衰退了,寂寞了,离开了,最后谁也没有了。
最后落成这样的结果。对曾经一瞬间存在的光辉灿烂予以不可置信。
荣枯盛衰的无情和家族荣耀的刹那,人们当然要祈求,用不信任的眼光把其辉煌和温存看成吉丁虫那样的东西。
对祭奠之后的空虚和过度悲戚的恐怖感,我对那些恐怖一直在害怕着。